「おおきな木」
作 シェル・シルヴァスタイン
訳 村上 春樹
合計点:13.62
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出版社:あすなろ書房 1,320円
ISBN9784751525401
「おおきな木」の注目ポイント
- 1964年にアメリカで出版されてから読み継がれている絵本
- 世界で三十以上の言語に翻訳され、各地で読まれ続けているベストセラー
- 今回紹介するのは村上春樹訳だが本田錦一郎の訳でも読んでほしい
「おおきな木」はこんな人にオススメ
- 無性の愛について考えたい人。
- 人生について考えたい人。
- 親子の愛について思いを馳せたい人。
「おおきな木」のあらすじ
あるところに、一本の木がありました。その木は一人の少年のことが大好きでした。少年は毎日その木の下にやってきました。そして葉っぱをいっぱい集めました。
葉っぱで冠を作り森の王様になりました。
木登りだってしました。枝にぶら下がって遊びました。
そしてりんごを食べました。一緒に「かくれんぼ」をして遊びました。
くたびれると木陰で少年は眠りました。少年はその木が大好きでした…。誰よりも何よりも。
気は幸せでした。でも時間が流れます。少年は段々大きくなっていきます。
木が一人ぼっちになることが大きくなります。
そしてある日、少年が木の下にやってきました。
木は言いました。「いらっしゃい、坊や。私にお登りなさい。枝にぶら下がって、りんごをお食べなさい。私の木陰で遊んで、幸せにおなりなさい。」「もう木登りをして遊ぶ年じゃないよ」と少年は言いました。
「物を買って楽しみたいんだ。お金がなくっちゃ。僕にお金を頂戴」
「ごめんなさい、お金はないのと」と木は言いました。「私にあるのは、葉っぱとりんごだけ。りんごを持っていきなさい、坊や。それを街でお売りなさい。そのお金で幸せになりなさい」
言われた通り、少年は木にのぼり、あるだけのりんごを集め、それを運んでいきました。
木は幸せになりました。
でもその後長い間、少年は姿を見せません…。木は悲しくなりました。そんなある日、少年がまた木の下にやってきました。木は喜びに体を震わせました。「おいで、坊や。」私にお登りなさい。
そして枝にぶら下がって遊んで、幸せにおなりなさい。」
「僕は忙しくて、木登りなんてしていられないよ」と少年は言いました。「僕には温かく暮らせる家がいるんだ」と少年が言いました。「奥さんも欲しいし、子供欲しいし、それには家がいるんだ。僕に家を頂戴よ」
「私は家を持っていないの」と木は言いました。「この森が私の家なのだから。でも、私の枝を切って、それで家を作ればいいわ。そして幸せにおなりなさい。」
少年は言われた通り、木の枝を切り、それを運んで行って家を作りました。
木は幸せでした。
でもその後長い間少年は姿を見せませんでした。少年がまた戻ってきたとき、木は心から幸せでした。
それこそもう口も聞けないくらい。「いらっしゃい、坊や」ときはささやきました。「楽しく遊びましょう」「僕は遊ぶには歳を取りすぎているし、心が悲しすぎる」と少年は言いました。
「僕は船が欲しい。ここじゃない遠くに僕を運んでくれる船が。僕に船をおくれよ。」
「私の幹を切って船を作りなさい。」と木は言いました。
「それに乗って遠くに行って…幸せにおなりなさい」
言われたように少年は幹を切り倒しました。
それで船を作り、遠くに旅立ちました。それで木は幸せに…
なんてなれませんよね。
随分長い時間が流れ、少年はまた戻ってきました。「ごめんなさい、坊や」と木は言いました。
「私にはもう何もないの。あなたにあげられるものが…」
「りんごはもうひとつもないし」
「僕の歯は弱くて、りんごなんて食べられないさ」と少年は言いました。
「枝だってもうないし」と木は言いました。「ぶら下がって遊ぶことも…」
「枝にぶらさって遊ぶには、僕は歳を取りすぎている」と少年は言いました。
「幹だってないわ」と木は言いました。「もう私に登ることも…」
「木登りするような元気は、もう僕にはないよ」と少年は言いました。
「かわいそうに」と言って木はため息をつきました。「あなたに何かをあげられるといいのだけど…でも私にはもう何も残っていない。今の私はただの古い切り株。悪いんだけど…」
「僕はもう、特に何ひとつ必要としない」と少年は言いました。
「腰を下ろして休める、静かな場所さへあればそれでいいんだ。随分疲れてしまった」
「それなら」と木は言いました。
そして出来るだけしゃんと、真っ直ぐに体を伸ばしました。「古い切り株なら、腰を下ろして休むにはピッタリよ。いらっしゃい、坊や、私にお座りなさい。座ってゆっくりおやすみなさい。」
少年はそこに腰を下ろしました。
それで木は幸せでした。
おしまい。
幼児期と親との関係、青年期と親との関係、成人してからの親との関係など、木と少年のやりとりを見て、思わず親子の関係について思いを巡らせた人も多いのではないでしょうか?。
自分を木の立場として読むか、少年の立場で読むのかによっても、この本の見方は大きく変わるような気がします。自分が犠牲になったとしても、それでも人を思いやる気持ち、(そもそも本人は犠牲になっているとも思っていない)と思えるほど人を愛するということの意味を深く考えるきっかけになることでしょう。